奇跡をうエピローグ









嗅いだこともないはずのその匂いを彼女は何故か、確かに懐かしいと感じているようだった。湿った風にうつくしい紅い髪を靡かせながら駆けてゆく。白い砂浜が途切れ彼方から打ち寄せては返す水際で立ち止まると、振り返ってあんたもこっちに来なさいよと言って笑った。その青い瞳とよく似た一面の空。それを水で薄めてエメラルドを溶かし込んだような水面は太陽の光を反射してちかちかと輝く。どこか遠くの空で聞いたこともない鳥が鳴いた。もう一度風が吹き抜けて粘ついた空気と彼女の白いワンピースを揺らす。海だ。

「ジャスティーン、はしゃぎすぎ」

近付いてそう言うと彼女は心外だというように瞬きした。その顔に僅かながらも影を落としているのは麦わら帽子の広いつば。城や下町とは比べものにならないくらい強い太陽の光を遮るためのそれは気候の違いを悟った彼女が珍しく自ら進んで買ったものだ。空気も街も人も自然もあの頃見ていたものとは全然違う。随分遠くまで来た。契約を交わしたあの日はまだ遠くはないけれどもう近くもなくなった。とうの本人と言えば視界の果てまで続く水水水にすごいすごいと連発している。見て、と指さす遠くの方向で何か大きな魚が跳ねたのが見えた。それなりに旅慣れてきたはずなのに彼女は新しい場所に着く度に楽しそうに騒ぐ。何がそうさせるのかはよく理解できないが、それでもここに着いてからのはしゃぎっぷりはその比ではなかった。

「だって、海よ!海に来てるのよ!」

返答になっていないことを興奮で上擦る声で答えると彼女は履いていた靴を脱いで波に足で触れる。沖合はあんなにも深い碧なのにその白い肌にかかる水は透明なのが不思議だった。まるで自分が生まれてから今までの気の遠くなるような時間の長さに匹敵するほどの膨大な水。たゆたうその中には地上とは似ても似付かない形容の生きものが住んでいるという。海というものを初めて見るのは彼女と同じだけれど、聞いた話や暇潰しに読んだ文献からその存在は前から知っていたし知識もあった。しかしそれはやはり実際に見て識るということとは違う。どんな本にだって風すらねとついていることなど書かれていなかったし、踏みしめる足が砂に沈んでいくような感覚は確かに今まで知らなかった。水面すれすれを這うようにして飛ぶ鳥があんなに白いこと。そして、彼女がこんなに喜ぶなんてことも。

「これからこの海の向こうへ行くのね」

空と海の境目を見据えるようにして彼女は言った。そういうことになっている。城から飛び出した後いろいろな場所に行って覚えきれないほど多くの人間に会った。というか正直大半は覚えていないが、追われて逃げて巻き込まれて巻き込んで。要するに城といる頃と変わらず彼女の周囲ではひっきりなしに何かが起こっている。腰を落ち着けるどころか旅流れている生活の中、それでも協力してくれる人間が全くいない訳ではなかった。盗賊に襲われていたところを助けてやった商人が船に乗るための許可書をくれたのは何月前だったか。ここは南の小さな港だ。明日ここから船が出る。長い航海にでる船だ。遙か水平線の先、海原を裂いて進み、新しい大陸へと行く船の。

「まさか本当に行くことになるとはなあ」

通称新大陸はこの大陸の人間には発見されたばかりで知られていることは極端に少ない。だから当然城からほとんど出たことがない自分の知識の中にもない。噂に拠れば向こうは向こうで人が住み街があるらしいが、こちらに比べれば大分少ないらしい。そこに彼女は惹かれたのかもしれない。この海を越えれば完全に魔術界と切れる。だからといってまだ見ぬ土地が、安住の場所だと決まったわけではないけれど。

「大丈夫よ、きっと」

彼女は何の屈託のもなく笑う。その笑顔を今でも眩いと思い、隣にあることに穏やかな幸福と満足を感じた。世界は広く、深く、大きな秘密が隠されていることを知りながら眠るように死にたがっていた自分はもういないのだとはっきりわかった。むせかえるような潮の匂いと見えない生きものの息吹。ここは城とは違ってあらゆるものがごちゃごちゃで、でも本当は世界の大部分がそうだった。

「二人なら大丈夫よ、レンドリア」

重ねて言われた台詞は驚くほど陳腐な。でも微笑んだ彼女の言葉だからそれはとても優しく響いた。そうだな、言って微笑み返してから気づく。自分は本当はまだ見ぬ土地なんてどうでもよくて、そこで安穏に暮らせるかどうかすら実はそんなに興味がないこと。どうせ何処に居たって同じなのだ。彼女の側で何事も起こらず平穏に月日が流れることなんてきっとない。そうしてそれ以上に、自分が彼女の隣に居ないことも有り得ないのだし。















+リク13、レンジャス。確かシチュエーションの指定はなかったので「捧げた誓いに祝福を」と対にしてみました。あっちはジャス視点旅開始直後、こっちはレンドリア視点旅佳境。新大陸はまあ、あそこをイメージしてます。安直過ぎるかなーとも思ったんですがこの二人には前人未到の地へ行っちゃうくらいのその後を希望。トラブル続きで周囲を巻き込みながら結構ぴんぴんしてればいいです。うん、ほんと私の希望にまみれた話になりましたがいいんだろうか……。
何はともあれ素敵リクありがとうございました!



































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